感覚を磨くということ

 昨日7月14日、日曜のコンテのクラスで、いつもどうりのプログラムで行ったのだが、最後のバリエーション(小さな振り)では、続きを即興で踊ってもらった。次に、バリエーションのどの部分でもいいから、順序を気にせずに自由にバリエーションのすべての動きを自分の動きでつなぎながら踊ってもらった。
 いつもながら、見ているだけで非常に勉強になる。というのは、意外なことが必ず起きるし、また、こういう持って行き方をするな、という予想可能というか必然的にわかってしまうこともあるからだ。どうして予想可能なことがあって、どうしてハッとさせられることが起こりうるのかは、一体なにに機縁しているのだろう。また、とてもシンプルな踊りなのに飽きることがなく、とても複雑でいろんなテクニックの踊りなのに飽きることもある。これらに、上手、下手はまったく関係ない。むしろ、自分はまだまだとおもっているひとに、ビックリさせられることがある。しかし、この言い方は誤解を招きそうなので、言い直すと、あくまでわたしの経験による独断なのであるが、その道にはまだ通じてなくテクニック不足でも、感覚の鋭い人に起こるような気がする。
 ダンスでは、テクニックをとにかくつけようと頑張りすぎてテクニック以外は見えなくなってしまうことがおうおうにしてある。そして、表現するとき、しっかりしたテクニックさえあれば、そのときの感じた感情を素直に出せば良いと思っている人が意外に多いのではないだろうか。しかし、そう簡単にその時に感じたものをすばやくキャッチして出せるものであろうか。例えば、こんなこともよくみかける、何も感じない自分を奮いたたせてがむしゃらに動くとか、 »喜怒哀楽”は、万人共通感覚と前提することで、コードらしきみたいな顔つきと仕草といっしょになされることがある。それは、もう、身体と感性が切断されてるときである。頭だけでというより思い込みの感情がむき出しに表現されている。それがどんなによく踊られ演じられても、それはシミレーションにすぎない。また、そうすることで自分を隠し、逆にそれを利用して擬似感情によるストレス発散にもなる。そういうときに限って、観客も共犯であることを強いられる。
 こういう現象がおきるのは感情的なものを吐き出すのは、その人のために良いことであるという、同情的な暗黙の了解、そして、なにより現代の風潮としての覗き見趣味からきているのではないだろうか。また、一方逆にパターン化することによっての安心感。これは、悪趣味かつ頭でっかちになりやすく、生身の肉体を持ってることを忘れがちだ。物事を深く感じ取る身体をつくることが、感性を育むのではないだろうか。。
 このサイトを読むひとたちはとても限られているとおもうのだが、それでも、ここでこういうことを書くことは、とても怖い。文章にする難しさ、なにを自分では分かった顔をして、とっくの昔に心身ともに鍛える重要さは知られているのだと言われるかもしれない。確かに、しかし、実際に現実ではどうだろうか。
 ダンスにおいてテクニックは身体能力だけをさすのか、そして、感覚を磨くこととは一体なんなのか。それは、テクニック化された身体だけでなく、感じ取る肉体を持った個であることを忘れさせない。洗練されたテクニックをもっても、いつも野性的なものも持ち合わせることが出きるのではないだろうか。
 
 
 

トライアングル Youtube

ルリアンのメンバーのひとり山手さんの紹介で、現在青山大の4年生の進藤くんに、わたし(高木パジェス)の指導のもとで、ルリアンのメンバーの踊りを撮影してもらいました。まだ、ルリアン自身のYoutubeアドレスを持っていないので、コンテンポラリーダンスの分野にないのが残念なのですが、5月に一応Youtubeに載せたので見てください。